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「本が一番確かな情報だ」という言葉に思う“情報”との向き合い方(メモ)

こんにちは、takです。

 

おととい、記事に「本を“情報(時間が変われば変わるもの)”としてとらえてはいませんでした。」と書きました。

 

でも、さっき“本が一番確かな情報だ”という言葉を目にして“おっ”となり、偶然良いタイミングだったので自分の備忘録としてメモしておきます。

 

だらだら、とりとめもなく書いていますが、「もっと本でも情報を得ていこうと思った」というだけの自分向けのメモです。

 

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まず、僕が「本を“情報(時間が変われば変わるもの)”としてとらえていなかった」と書いたのは、「本に書いてあることの価値は、時間が経ってもほとんど変わらない」と感じていたということです。あまりこれまで読書をしてこなかった僕にとって“本”は、“作品”のようなものでした。“絵”や“骨董品”のように、見る人によって価値は変わるけど、時間が経っても“あまり”価値が変化しないものという感覚でした。

 

でも少し考えたらホントに当たり前ですね。だって、「医学」に関する10年前の本が今も正しいかって言われたら、違いますね。あまりちゃんと考えていないのに、考えたふりして文章にしたからこうなったんですね。言葉にするなら、もっと考えないといけないなと感じました。でも言葉にしたから、この感覚にも気づけたのかなとも思います。

 

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次に、“本が一番確かな情報だ”という言葉をみて感じたのは、「本=情報」⇒「本を読む=情報を取り入れる」⇒「じゃあ情報ってどう取り入れたらいいの」ってことでした。

 

 

まずは、自分で直接取り込むか、他者を通して取り込むか

 

自分で直接取り込むときは、「自分の目で見る、耳で聞く、鼻でにおいを嗅ぐ、食べる、触る、体験する」です。

 

他者を通して取り込むときは、「親から話で聞く、知り合いから話で聞く、赤の他人から聞く、有名人から聞く、テレビのニュースで見る、新聞で見る、インターネットで見る、そして本で見る」。さらに、「テレビのAという番組で見る、Bという番組で見る、X新聞で読む、Y新聞で読む、インターネットのSサイトで見る、Lサイトで見る、Tさんが書いた本で見る、Uさんが書いた本で見る」。いくつものフィルターを通して、自分に取り込んでるってことですね。

 

次は、手段(時間とお金)”と“質(信憑性と鮮度と価値)

 

例えば、「マグロの味覚(情報)を知りたい」という場合に、

・家から徒歩3分のスーパーで、ホントかどうかわからない単にパッケージに“マグロ”と書かれた赤い物体を300円で購入して、家で半日後に食すのか

・飛行機で有名漁港まで1日掛けて行って、水揚げされたばかりの本マグロを目の前でさばいてもらって、その場で3000円で食すのか

で、食べたときに得られる満足感(結果)って変わってくると思います。

 

さらに、なぜ「マグロの味覚を知りたい」と思ったのが、

・ 単に個人的にそう思っただけなのか

・ 「マグロの味を紹介する」という仕事をすることになったから

というような目的によっても変わります。

 

 

情報の種類と情報を得る目的を考えて、手段を選ぶってことですね。

で、その手段によって得られる情報の質は変わってくる。

 

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で、じゃあ「本という手段を選んでどんな情報を取り入れるか」って僕は考えます。

 

本は著者が出版社を通して世に出るパターンが多いと思いますが、まず著者の意見が出版社という第三者の目でチェックされています。で、著者も出版社も自分で自分の評判を落とそうと考える人もいないと思うので、「誰かに無理やり言わされている」という意味での偏りはないはず。著者の主張に関しては、その人の意見があるのでそこは偏りとは言わないと思います。

 

一方で、ブログを書き始めたばかりで言葉にするのが難しいですが、インターネットはその情報を書く人のフィルターがかかってしまっています。さらに、場所によってはサイトを運営する人もフィルターもかかってしまいます。広告主の意向もあるし、「意見を言いたい」という目的とは違う目的の方のフィルターもかかってくると思います。もちろん、出来るだけ偏りがないようにしているところもあると思います。当然ですが、僕が何かに関する記事を書けば、少なからず僕のフィルターがかかってしまいます。

 

人から伝え聞いた話は、言うまでもなくその“伝え聞いた相手”のフィルターがかかっています。

 

ここで、“本が一番確かな情報だ”という言葉を“本は比較的フィルターがかかりづらい情報である”という風に個人的に解釈しました。で、それなら“もっと本でも情報を得ていこう”と思ったわけです。

 

 

と同時に、情報は受け取り手である自分が自分で考えて判別していくモノであると再認識しました。

 

本も次から次に、いろんな本が出版されています。

僕が好きなサッカー雑誌で考えてみます。約15年前はサッカーダイジェストは毎週発行されていたのに、今は隔週になりました。サッカーマガジンについては、月間になりました。僕が小さいころは、そのサッカー雑誌を買って、その週の試合の結果と戦評をチェックするのが楽しみでした。でも、昨日買ったサッカーダイジェストにはそんなこと1つも書いてありませんでした。不満があるわけではありません。だって、じゃないと書店で手に取って580円を払って買ってはいません。今は、試合結果は試合が終わった時点で、今の僕の場合は“知りたい”と思って調べれば、ほぼ確実に知れます。戦評だって、その日の夜になればいろんな情報に触れられます。昨日のサッカーダイジェストが、試合結果メインであれば間違いなく手に取っていません。特集を見て“家でゆっくり読んでみたいな”と思ったから、買っただけです。“試合結果はインターネットで無料で得て、ちょっとしたまとめ記事みたいなものは有料で得た”ということだと思います。昨日のサッカーダイジェストの特集(まとめ記事)は、各クラブの歴史をまとめたものでした。たぶん、自分で大分時間をかけて調べてまとめれば、できないことでもないです。逆に、自分でまとめれば、違う気づきが出ると思います。でも、580円払ってその場で得られるその情報を買うことを選んでいたということです。

 

サッカー雑誌じゃない、いわゆるビジネス書でも、同じ著者の方が比較的短いスパンで本を書かれています。たいてい、そういう方はSNSとかでも自分の考えを発信していると思います。SNSであればあっという間に発信できます。でも、ある程度時間と労力をかけて本を出されているということは、うまくまとめてくれているのだと思います。そんな本に自分の関心が向けば、読まない手はないと納得しました。本屋で無数にある本の中で目が留まっただけでも、手に取ってみる価値はあるんだなと感じました。そこから、立ち読みで済ませるか、購入するかはまた別のいろんな価値観が入ってくるので、すぐに言葉にするのは難しいです。

 

「インターネットで無料ですぐに得られる情報もあれば、本でしか得られない情報もある。うまく情報と付き合っていかないといけないな。」と改めて感じたという話です。

 

となると、じゃあ偶然にも最近インターネットでブログを始めた僕は「これからどういう風にブログを書いていこうかな」と考えるわけですが、本に関する話として書き始めたこの記事からは外れてくるので、別記事にしてみます。

 

 

もし、ここまで読んでいただけた方がいましたら、ありがとうございました。